歴史/沿革
鬱陵島は武陵、芋陵または于山国と呼ばれた。
青銅器時代(BC 1000 ~ BC 300)、または鉄器時代前期(BC 300~AD 1年)の物に推定される支石墓、無紋土器、ガルドル、ガルパンなどが発見されていて、あの時から人が住み始めたと推定される。三国志の魏志東夷傳の沃沮條の高句麗東川王20年(246年)に関する記録に言及されている東海岸の島が鬱陵島という説がある。
我が国の文献に鬱陵島の記録が現われたのは 512年新羅智證麻立干13年で何瑟羅(今の江陵) 君主である異斯夫が于山国を征伐、服属させたという記録がある。
沿革
- 512
- 新羅将軍異斯夫が于山国服属
- 930
- 高麗太祖 13年朝貢した芋陵島住民に爵位を下賜
- 1379
- 禑王 15年倭寇が武陵島住民たちを本土に帰還するようにする。
- 1479
- 太宗 17年金麟雨を安撫使として派遣して住民を帰還させた。
- 1693
- 肅宗 19年鬱陵島で安龍福仲間と日本漁夫たちの衝突で朝鮮と日本間 外交紛争発生(安龍福 1次渡日)
- 1694
- 肅宗 20年三陟詹事張漢相が鬱陵島搜討
- 1696
- 肅宗 22年安龍福 2次渡日して日本伯耆州太守と談判、鬱陵島が朝鮮領土であることを認定
- 1882
- 高宗 19年李圭遠検察士が鬱陵島調査復命で開拓領発布、全錫奎を島長に任命
- 1883
- 7月開拓民 16号 54人入島
- 1900
- 10月鬱島郡で改称して江原道 27番目の郡として編入(勅令第41号) 島監から島守に変更
- 1906
- 光武 10年鬱島郡を鬱陵郡に改称、慶尚南道に編入
- 1914
- 慶尚南道から慶尚北道に編入
- 1949
- 政府樹立後鬱陵郡に還元 (慶尚北道鬱陵郡)
- 1979
- 南面が鬱陵邑に昇格、現在の1邑2面体制構築
- 2000
- 独島里新設